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    プ ロ ロ ー グ  40周年にふさわしい記念行事を・・・
  フーテンの寅さんも在籍した
  「先生、坪内先生!おひさしゆうございます。先生、あっしの面に見憶えはござんせんか。お忘れですか、ムリもねえ。20何年も昔のことでござんすからね、葛飾商業でもって先生に英語を習ってた車寅次郎ですよ。忘れちゃったかな、オレのことを」
  「いや、忘れとらん。憶えとるよ」
  「本当、本当に憶えてる!」
  「うん、さ、上がれ」
  フーテンの寅さんのシリーズ第2作『続・男はつらいよ』に、寅さんが恩師・坪内散歩先生を訪ねるシーンがある。寅さんは、はっきりと「葛飾商業でもって先生に英語を習ってた」と話している。
  年代からいえば、1期生か2期生にあたるだろうか。もっとも、寅さんは校長をなぐって都立葛飾商業高等学校(以下、葛商と略)を中退しているので、卒業生ではない。謹厳実直でならした初代校長の山田市郎が何かの会合の席で、「どうやら私が寅さんになぐられた校長のようです」とやって、大喝采を浴びたことがあった。

  記念講演を山田洋次監督に
  平成14年(2002年)初め、葛商の「創立40周年記念式典」が実施されることになった際、式典の目玉を何にするかが問題になった。
  「寅さん映画の山田洋次監督に記念講演をお願いしたい」
  関係者のなかでは最初から結論は出ていたが、山田監督は『男はつらいよ』シリーズのほか、『幸福の黄色いハンカチ』『キネマの天地』『息子』『学校』シリーズなど数々の名作を世に送り出した大監督だ。講演料は安くはないだろうし、多忙であることも間違いない。そもそも、都立高校の周年記念事業などに応じてくれるものだろうか。
  おずおずと山田監督にアプローチしてみたところ、「寅さんの母枚の記念事業なら」と即座に快諾。しかも記念式典を予定していた12月25日は先約が入っていなかった。講演料に関しても「営利を目的としていませんから」と、一度はやんわりと断られたほどだ。
  山田監督の了解をもらった瞬間に、「創立40周年記念式典」への回転が始まった。

  40周年記念事業実行委員会が発足
  まず教職員の代表、同窓会役員、葛翔会役員、PTA役員からなる創立40周年記念事業実行委員会が組織された。記念事業の全責任を持ち、実際に運営していく組織だ。委員の互選で実行委員長 には葛商同窓会会長の提橋和男、副実行委員長にはPTA会長の天羽経子が選ばれた。
  委員会の討議を経て、記念事業の方向性が固まった。柱となるのは「創立40周年記念式典」「記念講演会」「記念祝賀会」で、いずれも12月25日に実施されることが正式に決まった。あわせて、『創立40周年記念誌』の刊行も計画された。
  当初、委員会は「山田監督の講演を生徒たちに聞かせたい」と考えたが、監督は「親の世代に向かって話をしたい」との意向だった。そこで、一般の区民にも開かれた「公開講演会」のかたちをとることになつた。
  会場は「記念式典」が葛商の体育館、「記念講演」「記念祝賀会」が足立区綾瀬の「東京マリアージュ」と決定。細かな式次第も順次、詰められていった。
  「記念式典」後の体育館で、人気上昇中の津軽三味線の姉弟ユニット「一大・典美」を招き、「記念演奏会」も開催されることになった。
  「記念祝賀会」のアトラクションに若手のアーティスト、橋本真奈美(ピアノ)と内藤こずえ(ヴ ァイオリン)、社交ダンスの大島勲と金田あきえを起用したのも本物指向の表れだった。
  実行委員会は合計6回開かれたが、テーマごとに分科会を置き、ひんばんに会合が重ねられた。
  そして平成14年(2002年)12月25日、記念式典の当日、会場となる体育館の壇上には見事な五菓の松の盆栽が置かれていた。教頭の松井昭夫が農芸高校から借りてきたものだ。ちなみに、この日は相当冷えることが予想されたため、巨大な暖房機を本所工業から2台、農産高校から1台借り受け、早朝からフル稼働させていた。
  午前10時。司会の山田和人(商業)の凛とした声が体育館に響きわたった。
  最初に松井が「開式の辞」を述べた。
  「ただいまから東京都立葛飾商業高等学校創立40周年記念式典を開会いたします」

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