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「校長訓話」を1日も欠かさず
放送設備が完成すると、山田は毎日ショートホームルームの前に5分間ほど、「校長訓話」を全校放送することにした。内容は多彩。山田の十八番ともいえる「玄米」の話から、生き方、哲学、学校生活など、さまざまなことを題材に取り上げた。
山田は「校長訓話」を最優先した。朝から出張が入っていた日でも、まず登校して放送を行ってから、出張に出かけるほどだった。父母にも支持され、結局、定年退職するまで6年間、1日も休むことなく「校長訓話」は続けられた。
山田のもとに集った教員たちも意気盛んだった。
「山田校長の強力なリーダーシップもあったからでしょう、先生方の意気込みは大変なものでした。『世間は葛商なんて知らない。葛商の評価は君たちが社会に出た時に決まる』。そういわれたものです。『君たちには伝統がない。君たちが伝統をつくれ』ともいわれましたね。だれかが冗談で『デントウはないけど、蛍光灯はあります』なんて答えていました。生徒にも猛者が多かった。それはともかく『三商(第三商業)なんかに負けるな』と、よくハッパをかけられたものです」(提橋和男、1期生)
同窓名簿片手に就職先を開拓
伝統がない。知名度もない。就職の実績もない。1期生たちは3年生になると、「こんな名もない学校に求人を寄せてくれる企業なんてあるんだろうか」と心配しあった。
ところが、「求人票」を見ると、そうそうたる企業がズラリと並んでいた。「手控え」といわれる年だったが、就職率は100パーセント。主な企業をあげると、三菱銀行7人、富士銀行4人、東京銀行3人、三井物産3人、三菱商事2人など。「新設校で歴史もない葛飾商業が、よくあれだけのところへ入社できたものだ」と周囲からは驚きの目で見られた。
もちろん、そのための努力が人知れず続けられていた。就職先開拓に奮闘したのが教頭の土屋卓治(後に第一商業校長、全商協会理事長)だ。「1期生の就職が未来の葛商の就職を決める」と進路指導の足立敬(商業)らを連れ、大手町、丸の内周辺を徹底的に回った。
土屋は同窓生人脈をフルに活用した。大学時代の先輩、友人を会社に訪ね、誠意を尽くして訴えた。そのうちに、黙って会社の窓口に立つと、受付の女性が人事課に案内してくれるようになった会社もある。それほど、足しげく通いつめた。
努力が実り、著名企業が続々と門戸を開いてくれた。1つの会社で毎年何人かずつ入社し、社内で「葛商同窓会」を持つ例も少なくなかった。たとえば、三菱商事には昭和46年(1971年)時点で32人の同窓生が在籍、「ミツバ」(葛商の校章のクローバーと「三菱」の「三」にちなんだものか)という社内同窓会を開いている。 |
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