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    どろんこ道がボクたちを鍛えた−5
  「開拓精神」そのままの婆●提橋和男(1期生、現・同窓会会長)
  在学当時の葛商名物は、どろんこの通学路と雨が降れば水たまりだらけの広い校庭でした。
  毎朝5分、山田市郎校長の放送によるお話があり、そのあと瀬川順三先生の「読みあげ算」による算盤の練習がありました。
  山田校長は朝礼で「ハーマン・カーンという人が『21世紀は日本の世紀である』といっている」という話をされたことがあります。昭和30年代後半の貧しかった日本。先生のお話を聞いても高校生の身では実感がわかなかったものです。
  先生方は単なる知識の切り売りではなく、根本的な「ものの見方」も教えてくださいました。後に荒川商業の校長になられた小林秀一先生の「これからの日本はハードよりソフトの時代になる」というお話をうかがったときは、まったくピンときませんでした。その後、実際に「ソフトの時代」を迎えて、「ああ、そうだったのか」とやっと納得できた次第です。
  あるいは、オイルショックを迎えたときには、伊部智代先生の授業での「石油資源はあと20年」というお話を思い出しました。卒業後の日本や世界の動きを見据えて、生徒の「社会を見る目」を養おうと、大きな指針を話して下さったのだと実感しました。
  山田校長は土屋卓治教頭、笈川達男先生を中心に、優秀な先生方を集め、本校の歴史と伝統の礎になる草創期の生徒たちの人間性確立の指導に力を入れられました。実社会に出たとき、 本校卒業生が他校卒業生に引けをとらないようにと配慮されていたと思います。
  1期生の就職にあたっては、山田校長、土屋教頭が夏休みを返上され、就職先開拓のため足を棒にされて歩かれたというお話もうかがったことがあります。当時の葛飾商業は、まさに校歌に歌われる「開拓精神」そのままの姿でした。
  土屋教頭は大変厳しい先生で、7期生在学のころは、竹刀(木刀)を持って校内を見回って歩いておられたそうです。私は同窓会活動を通じて、先生が厳しさの中に生徒のことを本当に思って指導されていることを知りました。今から思えば葛飾商業に「名物教頭あり」といったところでしょうか。
  また、生活指導に厳しくあたられたのは剣豪・笈川達男先生です。
◆生徒主導で学校をよくしていった
  私たちの頃は「週番委員」がありました。私も委員でした。朝、校門に立って遅刻者をチェックすることに始まり、服装検査や掃除のチェックなどを行いました。
  戸締まりの確認などもしますから、週番委員が帰るのは一番最後でした。いつだったか、下校しようとしたら、入れ替わりに登校してきた定時制の生徒に文句をいわれたことがあります。
「君ら全日制の生徒は、汚れたままの校舎をわれわれに引き渡すのか」と。昇降口が泥だらけだったんです。「オレが汚したんじゃないんだけど」と思いながら、掃除しました。終わった頃には真っ暗になっていました。
  週番委員は生徒主導で学校をよくしていこうという制度でした。何ごとも学校主導になった現在では、信じられないことかもしれません。ただ、陰に陽に先生方が指導してくださったことも間違いない事実です。
  学生運動が激しかった昭和40年代半ば、高校にもその余波が広がり、得体の知れない学生が校門のあたりをうろつくということが多々あったそうですが、週番委員の女生徒が追い返したという逸話も開いたことがあります。当時、そうした校風があったのも、先生方の指導があったらばこそだと思います。
  野球部の須田宏明先生、葛商新聞(学校新開)発行を指導された中村京子先生、体育の大嶽秀行先生、商業の青木(旧姓・坂田)陽子先生。
  葛飾商業に教育の情熱を捧げられ、定年まで勤められた小山重光先生、須藤幸先生。厳格な指導を受けた担任の石崎草生先生、温厚なお人柄の本橋邦男先生、副担任で体育科の松野靖臣先生、その他のお名前をあげていけば切りがないほど、多くの先生方が思い出されます。
  雪が降って、通学路も田んぼも一面雪に埋もれてしまった朝、住吉小学校から学校までリヤカーで生徒や荷物を運んで下さった用務員の国分甫さんや佐藤阿起さん。
  葛飾商業40年の歴史の中で、それぞれの時代を過ごした卒業生の方々にも多くの恩師の思い出や教えに導かれた経験がおありでしょう。葛商は卒業生にとって、忘れ得ぬ「青春の故郷」であり、未来を指し示す「灯台」でした。母校を思うと、尽きせぬ感謝の念がわきあがってきます。

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