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    どろんこ道がボクたちを鍛えた−4
  ネギ畑に白亜の校舎●須藤章(元本校教諭、理科)
  ベビーブームの日本がやっと教育にカを入れはじめて最初にできた学校が、葛飾商業高校です。地元の人々はもちろん、たくさんの人たちの応援と期待のもとに誕生しました。
  第1期生は校舎が完成しておらず、毎日物理室や生物室の大きな机を2階、3階に持ち込む作業などに追われました。
  今では考えられませんが、道路が住吉小学校までしか舗装されておらず、雨の日はもちろん、その後数日は校舎に近づくのはたいへんでした。
  近くの工場が石炭を熱エネルギーとして使っていましたので、その石炭の燃えかす(ガスがら)をリヤカーに積んで、道路を作ることもやりました。飲み水を確保するのに、当時の用務員さんは、たいへん苦労されていました。
  しかし、まわりに人家もなく、ネギ畑の真ん中に1棟の白亜の校舎が建っている姿は、何ともいえぬものでした。自然がそのまま残っていました。
  塀もないグランドは周りの田んぼや畑と何の区別もない空間でしたから、白鷺が舞い降り、大きな蛇が現れました。蛇をクツ箱に入れられて生徒が泣き騒ぐこともありました。
  始業前に放送を利用して、毎日ソロバンの練習をしたり、教師に頼らず、生徒は自主的によく学習し、いろいろと活動していました。
  2期生を迎える頃には、地元の期待もたいへん大きくなり、入学試験の教室が足りずに、新宿中学校の校舎も借りました。新宿中学校を借りて、入学試験を行うことはその後、何年も続きました。
  創立から3年が経って卒業生の就職が始まりました。多くの人たちの援助と、生徒たちの努力で、立派な実績を残しました。創立40年、たくさんの卒業生が、社会ですばらしい活躍をなされ、大きく社会貢献されています。
  私は葛商に22年在職しました。最初に建てられた校舎が壊され、新しい校舎に移るときに、私も転勤しました。これからの日本を支える新しいカとなる立派な葛飾商業高校の卒業生がたくさん増えることを期待しています。

2つの情景に寄せる●中村京子(元本校教諭、国語、1期生8組担任)
  
葛商新聞創刊号
◆通学路
  昭和37年(1962年)7月、葛商新聞がようやくうぶ声をあげた。タプロイド版2頁の紙面のあちこちに、通学路の悪さに悩まされる生徒や学校の姿が見え隠れしている。1面トップ「葛商1年生に望む」という見出しの校長先生の寄稿は「泥んこで困惑する諸君の姿を眼前に彷彿と浮かべながら」と書き出されている。
  紙面を目で追っていくと座談会の記事があり、クラスを代表して参加した女生徒の一人が、「少しでも雨が降ると長ぐつをはいて来なければならないので、他校の生徒の手前はずかしい」と発言すると、他の女生徒全員が同感している。
  さらに短信欄によると、6月には長雨のため通学路は本格的に悪化し、父兄会が中止というありさまであった。父兄会の出席者はほとんどが母親で、外出には和服を着用する人が多かったから、中止は無理からぬことであった。
通学路    
第1回卒業式
ちなみに葛商の男の先生方の中にも、家庭では和服の愛用者が少なからずいたのも事実で、今となっては伝説の香りがする。
  ◆第1回卒業式
  昭和40年(1965年)3月の卒業式に間に合うべく体育館ができあがった。3年前の入学式は葛南北側にあった新宿中学校の講堂を借りて、全員「椅子なし」で、立ったまま行われたのだったから、まさに感激の卒業式 であった。式後、泣きながら退場していった女生徒たちの姿が、今もありありと目に浮かぶ。
  開校当初、葛商の職員の平均年齢は32歳と聞いた覚えがあるが、私は最年少だった。人生経験が浅く、教職歴も短い私に対して、男女生徒ともよく従ってくれたものだと感謝している。そしてその思いは年とともに熱くなっていくのを感じる。
  私が下校しかけたとき、名残を惜しんで立ち去りかねていた8組の女生徒たちと出会い、「西側にあった正門」前での記念写真となった。
  卒業証書を手に、まだ冬枯れの葛飾の田圃道を高砂駅へと向かう彼女たちの胸には、実社会へ巣立つ喜びがぎっしりと詰まっていた。

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