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    新校舎が誕生、新しい時代の幕が開いた−3
  旧正門の校名プレートは残った
  昭和59年(1984年)10月27日には「新校舎落成式」が盛大に行われた。
校長は、この年の4月から第5代の川島恒夫が務めていた。川島は第4代の田中とは市谷商業時代に一緒に教鞭をとった先輩、後輩の間柄。田中から商業実践の指導法などを教授されたこともある。
  新校舎誕生にあわせて、昭和60年(1985年)4月から制服も変更された。
  懐かしい「渡り廊下」「中庭」も消えた。旧校舎時代の面影を見つけることは、ほとんど不可能になったが、旧正門の校名プレートだけは保存された。同窓会の熱心な働きかけによるもので、校舎の裏手の植え込みの中に、ひっそりと設置されている。

  変わるものと変わらないもの●星野(旧姓・倉澤)祥子(14期生)
  娘の高校訪問のため、24年ぶりに葛商を訪れました。そこで、昔(在学当時)と今との違いにびっくりしました。校舎が建て替えられていたので、校舎の位置、正門の位置が変わっていました。
  廊下も広く、エレベーターがあり、バリアフリーになっているとのことでしたが、あの懐かしい渡り廊下がなくなっていたのは、とても残念でした。みんなで草むしりした中庭も消えていました。葛商というと、なぜか渡り廊下と中庭を思い出します。
  実践室は見た途端「うらやましい」と思いました。在学当時はパソコンはなかったので、一人ひとりが自分の会社をもって取引を行いましたが、今はパソコンを使い、4人1組で行っているそうです。
  パソコンのある教室も立派でした。やはり、その時代に応じた学校に変わっていくものですね。1クラス45人の私たちの時代と違って、今は35人で、先生の目も行きとどきますし、教室もゆったり。商業科目は先生が2人で教えてくださり、計算実務はレベル別、補習授業もあるとのことでした。だからこそ、検定試験の合格率も都立で1番なのでしょう。先生方の努力のたまものです。
  40周年を迎え、葛商も否応なく変化していくのでしょうが、葛商の理念というか、基盤となるものは変わらないでほしいと思います。学校周辺や校舎が変わったとしても、私たちの母校として、葛商は葛商のままに、いつまでも続いていくことを心から願っています。

  青春時代へ続く「渡り廊下」●伊藤政子(16期生)
  
昭和61年頃の通学風景
家から歩いていけるところにも商業科はあった。電車通学にあこがれて、それに都心は混むので反対方向なら空いているだろうと、葛商を選んだ。
  駅を出て、住宅地を抜け、畑と畑の間の道を歩く。最初はびっくりした。畑があることに。こんなところを通って学校に行くのかと思った。おしゃべりしながら、のんびり歩いていた気がする。テストの日は勉強もしながら。
  校舎の思い出といえば、2つの棟をつなぐ渡り廊下でダンス部が練習していたことが印象に残っている。最近テレビドラマの中で、ダンス部が鏡のある部屋で練習しているのを見たことで思い出したのかもしれない。
  渡り廊下って広くて、いろいろに利用されていたと思う。制服も変わり、校舎も建て替えられたそうだが、今でも渡り廊下はあるんだろうか。
  自分自身の部活動はというと、あれこれやった割には何も身についていない。
  読書。感想文を書くのがいやですぐにやめた。
  ソロバン。今回私に原稿依頼をした先輩がいたところ。
  お花。理科室で立ってやっていたと思う。
  アニメ。級友が立ち上げたので入部した。今でもあるのでしょうか。
  タイプ。さすがは商業高校、専用の部屋があった。今ならワープロか、パソコン。
  あと冗談で帰宅部っていうのもあった。
  ところでこれらが、いつ頃のことかというと、だいたい昭和50年代の前半のこと。当時の高枚生で良かった。今なら高校生はできないだろう。ルーズソックスは、はきたくないし、携帯電話も持ちたくない。受験に受かるかどうかが一番の問題だけど。

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