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    葛商今昔物語−2
  時代の波と格闘●塚内恒司(元本校教諭、理科、荒川商業高校校長)
  振り返れば19年ほど前、昭和59年(1984年)2月が私と葛商との緑の始まりでした。「葛飾商業高校への異動」という内示を受けた私は、面接を受けるために、勤務校である金町の本所工業高校から自転車を駆って、2キロメートルほど南の葛飾商業高校へ向かいました。その頃は西北側に正門があり、入るとすぐ左側に職員玄関がありました。
▼最初は右往左往
  校長室での面接では「すぐに学級担任を」とのことであり、私は2年生を持つことになりました。10学級編成の22期生のことで、1学級46人前後、全体で460人ぐらいという大規模な学年でした。学校全体でも1300人ぐらいの生徒がいた頃でした。
  明けて4月、引っ越し作業の終わった新しい校舎で59年度が始まりました。東側の道路が舗装され、正門も東側に付け替えられました。広々とした、ピカピカの新校舎で、私は2年8組女子クラス担任としてスタートを切りました。生徒も担任も慣れない校舎、その上担任の私は商業高校に特有の授業、行事、検定などを知らず、互いに右往左往したものでした。
  「英文タイブ」「和文タイプ」はどんな授業か全くわからず、「校内珠算大会」どんなふうに行うのかピンと来ず、「全商」「日商」「全経」の区別もわからず、冷や汗をかきながら担任の仕事をしていました。
▼指導はきめ細かく
  この頃は、服装についてかなり厳しい細かい指導をしていました。スカート丈を計る、それも物差しのような棒のようなもので。実際の検査は女性の先生がやってくださったのでとりあえずホッとはしましたが。
  しかし、いつもは相当数の女子生徒がスカートの裾をくるぶしぐらいまで下げて、ぞろぞろ歩いているのに、検査をしても名前があがりません。ある女子生徒が種明かしをしてくれました。ジャンパースカートの肩のところをクリップでつまむのだというのです。「ああ、そういうことか」とつい合点してしまいました。
  それから、靴下預かり。ワンポイントの靴下は違反なので、生徒部で預かっていました。朝のHRのときに「靴下とられた、とりかえしてくれ−」と叫ぶ生徒がいたので、「それは違反ですよ」といいながらも、生徒部の先生のところへ「寒そうだし、何とかなりませんか」といいに行きましたが、もちろんどうにもなりません。預かった靴下は学期末にまとめて返しました。
  月に一度大掃除があって、その時は全員、体操着姿と決まっていました。生徒たちは面倒くさがって、着替えさせるのがひと苦労でした。ただ「月に一度はきれいに」というのは校舎を清潔に保つ上では、たいへんに効果的でした。
  その他、朝の校門指導、5日連続の早期登校指導など、本当にきめの細かい指導をしていました。今にして思えば、先生方の授業、生活指導、検定、行事などに注いだ熱意、努力によって、比較的平穏な学校生活が送られていたような気がします。また、そのような厳しい生活指導が支えられる時代状況でもありましたが。
▼時代の変化
  その後、私はしばらく美化部、生徒部に属し、同時に文化祭、生徒会顧問の仕事もさせていただきました。しかし振り返ってみれば、その間、制度やルールの現実の状況に合わせる、という判断をせざるをえないような日々でした。たとえば、美化部のとき、「大掃除は体操服で」という看板は下ろさざるを得なくなりました。
  昭和63年(1988年)から平成2年(1990年)度まで、3年間生活指導部の仕事をしました。この間に遅刻数が激増して指導の手が回らなくなり、早朝登校制度、すなわち、「5回遅刻すると、5日連続で20分早く登校させる」というシステムが機能しなくなりました。ついに、平成2年度、職員会議で議論を続けた末、早朝登校指導をやめ、他の方法で指導することになりました。しかし、いってみれば「担保」がなくなったわけで、翌年から遅刻の歯止めが利かなくなったように思います。
  文化祭もしばしば企画委員会を担当させていただきました。
  伝統的に1年生は研究発表など、2年生は創作ものや縁日、3年生は模擬店販売としていましたが、1年生からは「研究や調査ばかりでは盛り上がらない」という声が強まり、こちらも議論の末、ついに1年も創作、縁日など可、ということになりました。
▼30期担任として
  そうこうしているうちに、いよいよ2度目の担任が回ってきました。平成3年(1991年)4月、30期生を迎え、私も4組担任として加えていただきました。担任は8人、年齢バランスも良く、ある先生の発案で「ステップ30」という標語を掲げてスタートいたしました。
  私自身にとっても3回目の担任であり、生活指導部を何年もやり、経験を積んだつもりで「さあ、いい学級つくるぞ」と張り切ってスタートしたのですが、思ったようにはスムーズにはいきませんでした。
  1学期はどうにか過ごしたのですが、2学期にはいろいろなところで、いわば「学級崩壊」寸前の状況となりました。私も必死の思いで、9月の体育祭の前後に生徒たちへの説得指導を繰り返し、また保護者の方々にも率直にご協力をお願いしました。
  それでどうにか立ち直りのきっかけをつかんだ、という気がしています。その後は、にぎやかながらも落ちついた雰囲気のクラスとなり、クラス内の結びつきも強くなっていったのですが、残念ながら3人が進級不可となってしまいました。
▼移動教室と修学旅行
  2年では3組担任として再スタートを切りました。大変だったのは猪苗代へ行ったスキー移動教室で、このときは風邪の大流行で、生徒が次々と高熱を出して動けなくなり、何十人もが実習を休む事態になってしまいました。2日日の夜から私も39度の熱が出て動けなくなってしまい、引率の先生方に大変なご迷惑をかけてしまいました。
  私たちの3年時の修学旅行は、航空機を初めて使う修学旅行となりました。1年時に生徒のアンケートをとったところ、最も希望が多かったのが北海道方面でした。学年の先生方で相談して函館、札幌を中心とする北海道方面と決めましたが、初めての航空機使用は慣れていた新幹線とはいくぶん勝手が違って、終わるまで不安の連続でありました。いまは飛行横はごく当たり前となっていますが。
▼さらに時代の波が
  
30期生の卒業の後、平成6年(1994年)、7年(1995年)度と2年間、再び生活指導部に所属しました。この時期には、いろいろな問題行動が急増し、その対応に追われていました。「特別指導」も実情にあわないところが多くなったので、生活指導部として見直しに着手していました。家庭、地域など、学校を取り巻く状況もずいぶんと変化していたのですが、学校側として十分に対応しきれなかった、という思いがします。
  この頃、生徒会活動はかなり活発なものになっていました。顧問の若い先生の指導を得て、平成7年(1995年)は夏から秋にかけて阪神大震災救援の募金活動を行いました。
  生徒会役員たちは午後4時頃から京成高砂駅前に立ち、道行く人に募金を呼びかけました。文化祭や「3年生を送る会」についても新機軸を打ち出し、後夜祭にも新しい企画を取り入れていました。生徒が多様化し、個性的になってきたな、と実感した2年間でした。そして、この年限りで私は葛商を去ることになりました。

  わが良き青春の日々●水林善明(18期生、会社経営)
  サッカーばかりやっていたような思い出があります。部活動じゃなくて、クラスの仲間たちとです。2時間目と3時間日の間の休み時間に「早弁」して、お昼になったらパンをパッと食べ、みんなで「ソレッ」とグランドや体育館に走っていきました。
  楽しかったですね。そのかいあってか、2年生の時、校内のサッカー大会でわがクラスが優勝した時は、本当にうれしかったです。
  当時、サッカー部が強かったからでしょうか、体育の授業もサッカーばかりで、他の種目は、ほんのわずかしかやらなかったような記憶があります。雨の日も雪の日も、グランドでボールを追いかけていました。
  部活動はフォークソング部でした。入部当初は男子は私を含めて3人いたんですが、最終的には私1人になってしまいました。その一方で、女子部員は30人くらいいたんですよ。
  文化祭では、青砥の公会堂と学校の2カ所でコンサートを開きました。男は私だけなので、ソロでアリスや松山千春のカバーを演ったりしましたね。
  部活動はダンス、ブラスバンド、文化系も全体的に活発でした。
  先生方も熱心な方々ばかりでした。私が思い出深いのは樋口今朝信先生(商業)。私は日商簿記の1級を受けたのですが、樋口先生は「2級までは補習なんてやらんが、1級は高校のレベルを超えているからな」と、週2〜3回、それも外が真っ暗になるまで、ていねいに指導して下さいました。
  1級に挑戦する生徒は私を含めて3人ほどしかいなかったんですが。全員合格することができました。樋口先生のお陰と感謝しています。
  就職して間もない頃の話ですが、ある時、勤務先の役員に呼び出されたことがあります。「怒られるのかな」と内心不安に思いながら行ってみたら、お茶とお菓子まで用意されている。そして「君のあいさつは大変気持ちがいい」と、お誉めの言葉をいただきました。
  葛商で「大きな声であいさつしよう」といつもいわれていたので、いつの間にかそれが習慣になっていたんですね。葛商では、勉強だけじゃなく、こうしたマナーや社会生活の基礎についても学ぶことができたと思います(談)。

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