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    変化の波に対応、情報処理科を設置−1
  「情報化」「少子化」の波が
  1980年代から顕著になってきたことは「情報化」と「少子化」だった。
  葛商でも商業科に加え、新しく小学科を設置しようという議論はあったが(会計科などが候補にあがっていた)、いよいよ平成4年(1992年)度から情報処理科が設置されることになった。
  あわせて都内の生徒数の減少で学級減となり、平成4年度の1年生から商業科5クラス、情報処理科2クラスの計7クラスになった。
  多くの商業高枚ですでに情報処理科は設置されていたものの、葛飾区、江戸川区、足立区東部に情報処理科がないこと、社会的に情報処理教育の充実が要請されていることなどから、葛商にも情報処理科が開設されたのだ。

  充実したコンピュータ設備
  
情報処理教育には定評がある
(平成8年)
葛商にパソコン48台が導入されたのは昭和60年(1985年)。
  昭和63年(1988年)には、さらにパソコン48台、ワープロ48台が使用できるようになり、27期生(昭和63年入学)からは9割の生徒が情報処理、全員がワープロ(文書処理)を履修していた。
  平成2年(1990年)には「総合実践」に汎用コンピュータと端末50台を導入、コンピュータを利用した「総合実践」の授業を行っている。
  また、平成元年(1989年)から「地域に開かれた学校」をめざして、「パソコン公開講座」を開催。平成14年(2002年)度には「ワープロソフト」「表計算ソフトの初級演習」が行われ、好評を博した。
  充実したコンピュータ設備は葛商の自慢だ。現在、情報技術工作室(第1情報処理室)、プログラミング室(第2情報処理室)、文書処理室(第3情報処理室)、データ処理室(ワープロ室)、コンピユータ室(第4情報処理室)などに合計260台のコンピュータを完備。そのうち、120台はインターネットに接続されている。

  2年間の思い出●黒柳正雄(第6代校長)
  私は昭和62年(1987年)4月に都立教育研究所主任指導主事から本校の校長として着任しました。当時は学校の近くにネギ畑などがあり、春には校長室でウグイスの声が開かれ、都会から離れた自然がありました。
  本校の初代校長は山田市郎先生ですが、以前、大学の先輩と先生の家に訪問する機会がありました。そのとき、玄米食や合気道のお話をうかがったことを覚えています。私の在任中、卒業式には来賓としてお見えになり、式後の会でPTAの方々にお話をされました。ありがたいことだと感謝しました。
  着任当時、教頭は全日制が松尾一郎先生、定時制が郡司辿哲先生、事務長は水沼徳五郎先生で、それぞれよく補佐していただきました。当時はパソコンが高校に導入され始めたころで、本校にもプログラム室にパソコン、商経ワープロ室にはワープロが入り、ブラウン管や液晶画面に向かった学習が始まっていました。
  翌年3月、郡司先生が栄転され、水沼先生は定年退職されました。4月に山崎長文教頭、高津喜三雄事務室長を迎えました。高津先生は教育庁の係長から、この年からできた事務室長になられたのでした。
  この頃は中学校の生徒数もまだ大きく減少していない時で、各中学校では3年生を対象とした進学説明会が開かれ、都立や私立の高校の管理職の先生を招いて、学校の説明を聞くことが行われていました。
  私はこの会で、葛飾商業高校の良さや進路状況を説明するとともに、日曜日には公的団体の各種検定試験を学校で行っていることを述べ、卒業資格のほかに職業上プラスになる資格を得るための勉強もできると強調したことを覚えています。
  昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇が崩御され、年号も平成となりました。当日は冬休み中でありましたが、学校に弔旗を掲げ、弔意を表しました。
  私的なことですが、校長1年目の1月初旬の寒い日曜日の朝、家から外に出たとき、急に左手の自由を失いました。翌日病院に行くと脳梗塞と診断され、即入院となりました。幸い病状が軽く、2週間余りで退院できました。
  このとき、PTAや葛翔会の役員の方々が自宅に見舞いに来られました。ありがとうございました。その後、再発することもなく、現在まで元気に生活しています。

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