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    どろんこ道がボクたちを鍛えた−1
  自然の中に「巨大な城」が出現
  葛飾区全体でも鉄筋コンクリートづくりの建物が少なかった時代に、自然の中に突如出現した巨大な建物。注目を集めたことは間違いない。
  「学校を遠くから見ると、畑の中に大きな城がたっているようにも見えたり、空母がその威容を誇るかのようにも見えた」(戸塚晃、商業)
  校舎が巨大な広告塔になったのか、人気が集中。願書受付は夜8時までかかり、事務作業に忙殺され、うれしい悲鳴をあげることになった。募集人員450人に対して、志願者は1110人。都立高校の中で、最高の志願者数だった。
  ちなみに、高倍率は2年目以降も続く。2期生の志願者総数は1904人、5期生は実に2251人で、4・5倍の競争率だった。当時の入学試験は「合同採点方式」。6学区の高校の教員が一ヵ所に集まり、採点していた。他の高校の教員から「どうして葛飾商業ばかり、こんなに答案が多いのか」と苦情をいわれることもあったようだ。
  第1回の入学試験は新宿中学校にも会場を設け、男女別に実施された。リヤカーを使っての答案運びや会場設営のことなど教員にとっては胃の痛むことばかりだった。

  校章は「誠実・勤勉・希望」を象徴
  校旗・校章・制服も制定された。校章をデザインした掘田信雄は金町高校が同居していた金町中学校の美術教師だった。
  「掘田さんは今もさいたまに健在です。東京芸大で培った美的感覚が葛商の校章を生み出したんですね。原画は美しく彩色され、『誠実・勤勉・希望』を象徴してみたと語っていました。まさしく、これが葛商の教育理念でもあったのです」(笈川)
  (昭和37年1962年)4月16日、第1回入学式が、やはり新宿中学校の講堂を借りて行われた。入学者数453人。都立高校の中でも、屈指の人数の大規模校だった。
  1期生たちは教員とともに「学校づくり」に汗を流した。最初は学校への道づくりを行った。なにしろ通学路がない。田んぼの中のあぜ道を通学路に変えるため、三菱製紙中川工場からガス殻をもらい、リヤカーで運んで道にまき、地ならしすることから始まった。とはいえ、大型のトラックなどが入ると、ズブズブと沈んでしまう。皆で引きあげるのに苦労した。
  そこで、トラックは住吉小学校のところで止め、そこから教員・生徒が総がかりで、備品・機材を葛商へ運び入れることにした。物理室・生物室の大型机やピアノなども、こうやって運び込まれた。

  雨が降ると、通が消えた
  1期生たちにとって、もっとも大きな試練は雨が降った日にやってきた。
  もともとは田んぼのあぜ道だから、いったん雨が降ると、どろんこ道になり、最低3日は長靴でないと歩けなかった。学校へ行くこと自体が、ひと苦労だったのだ。
  「通学路も田んぼの中の道ですから、雨が降れば泥だらけです。雨があがっても、しばらくは泥んこの状態が続くので、1週間くらいは長靴で通学しなければなりませんでしたね。電車の中で、葛商生は一目でわかるといわれましたよ。晴れた日に長靴を履いているのは、葛商生しかいませんでしたから」
と1期生。一面水浸しで、どこに道路があるのかさえわからない時もあった。冬になって雪が降った時は一段と大変だった。
  「朝、駅から住吉小学校までは行けたのですが、そこから先が真っ白で。どうしようかと途方に暮れていたら、用務員の国分甫さんがリヤカーで私たちを迎えに来て下さったんです。私たちを乗せて学校まで引いて行き、また住吉小まで戻って行った。何往復もされたと思います。ありがたかったですね」
  ちなみに、国分は毎日、区役所へ事務連絡に出かける必要があった。学校には自転車がなかったので、まだ高価だった(月給より高かった)自転車を自費で購入した。ところが、余りの悪路のため1年でダメになり、奥さんからしかられたというエピソードもある。
  道路には防犯灯もなかったため、定時制は金町中学校との同居生活を続けた。防犯灯が設置され、 道路も若干整備されたので、定時制がやっと新校舎へ移転したのは2カ月後の6月27日だった。

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