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    どろんこ道がボクたちを鍛えた−2
  年間368枚の手製プリント
  ようやく授業が始まったが、テキストはガリ版刷りだった。教科書が間に合わなかったのだ。内心「エラい学校へ来てしまった」と思った新入生も多かったが、教員にとっては教科書を使った方が、どれほど楽だったことか。
  パソコンやワープロ、コピー機など、いっさいなかった時代だ。すべての教員が、鉄筆で手書きした上で、謄写版で1枚ずつ刷っていた。しかも、毎日、毎時間だ。
  教科書が使えるようになつてからも、手製プリントをつくる熱心な教員も少なくなかった。一人で年間368枚もつくつた記録も残っている。

  後援会(後のPTA)の初仕事は「道路整備」の要請
  5月19日、建設協賛会が母体となつて葛商後援会が創設され、初代会長に荒井平三郎が就任した。他校のPTAにあたるものだが、山田の考えで、葛商にはPTAをつくらなかった。
  後援会は後に保護者会となり、創立10年目の昭和46年(1971年)5月22日にはPTAに改組され、第1回総会を行っている。
  後援会の初仕事は学校周辺の道路整備を区に要請することだった。区役所に何度も陳情に行った。
  建設協賛会から募金活動も引き継いだ。電話やロッカーを整えるにも資金が必要だったからだ。開校当初は学校に電話がなく、外部からの電話は隣家にかかってきた。呼び出しがあると、200メートル走って電話に出るような状態だった。

  
球技大会(昭和38年)、
グランドはデコボコだ
体育祭(昭和38年10月)
生徒会が発足、クラブも続々と誕生
  生徒も自分たちで伝統をつくろうと意欲に燃えていた。5月21日には生徒会が創設され、百足和夫が初代生徒会長に選ばれた。
  百足は「よい伝統も悪い伝統も後輩へと受け継がれる。悪いものは伝統という流れから、とり除きたいと思っている。また先輩がいないのは私たちの思うままに生徒会を築いて行けるということにもなるが、すべての責任は私たちが負うのだ」と意気込みを語っている(『葛南新開』創刊号)。
  ちなみに翌年5月に選出された第2代目の会長は2期生の関根恵美子だ。女性会長の伝統は草創の頃から、しっかりと築かれた。
  7月25日から館山・北条海岸での「臨海学枚」、30日から戸隠高原・飯綱山での「林間学校」と、後の「移動教室」につながる行事も行われた。
  クラブも次々に誕生した。野球、バスケットボール、バレーボール、剣道、卓球、ワンダーフォーゲル、華道、書道、礼法、商業、簿記、社会部などなど。
  10月下旬には図書館で商業部と書道部合同の展示会が開かれた。商業部の展示は写真を中心に「日本経済の実情」を簡潔に紹介したもの。書道部も力作ぞろいで、展示の間には華道部員の生け花作品も。ささやかな展示だったが、この行事が次の年から「文化祭」へと発展することになった。
  社会部主催の「葛飾史跡めぐり」も興味をひく。9月29日に行われたもので、バスで葛西城址、区役所、熊野神社、柴又八幡神社、帝釈天、金町浄水場、葛西神社などをめぐった。教員、一般生徒も含めて総勢60人という参加人数に驚く。
  野球好きの須田宏明(数学)は野球部づくりに取り組んだ。一番たいへんだったのはグランドの整備だ。乾けば土ぼこりがひどく、雨が降ると泥の海になり、1週間は使えない。三菱製紙からガス殻をもらってきて、グラウンドに埋め、地面を固めることから始めた。
  半年もすると、内野だけは見違えるほどキレイに。部員たちの愛着もひとしおで、一般の生徒が使おうとすると、怒鳴られることもあった。

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