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    新校舎が誕生、新しい時代の幕が開いた−1
  校舎の中に雨が降ってきた
  屈指の校舎も建設後10数年も経ると、どうしても劣化していく。学校周辺は地盤沈下がひどく、その影響もあって、あちこちにガタがきた。
  雨漏りもひどかった。特に図書館は、雨が降ると、20個近いバケツのお世話になった。サッシの窓からも水滴は落ちるし、壁面のひび割れからも水がじわじわとしみだしてきた。雨がどこかにたまるのか、晴れていても天井から水が落ちてくることもあった。図書館司書の早乙女鈴恵は蔵書を濡らさないように、「雨水対策」に追われた。
  昭和53年(1978年)4月、第4代校長として着任した田中宏平がグラウンドに立っていると、小山重光(理科)が寄ってきて、「校長先生、この運動場の荒れようを見て下さい。スプリンクラーもダメになりました。体育館の組立式演壇も何とかなりませんか」
と注文をつけられた。田中は校舎を改築せざるを得ないと考えたが、すぐには難しい。とりあえず、電子計算機の設置を急いだ。
  「部屋がない」との声もあったが、ちょうど男子の入学者が100人を切っており、男子便所を計算室に改装するという「ウルトラC」で対処した。都からも文句が出たが、田中は押し切り、昭和55年(1980年)2月に電子計算機(NEAC150)が導入された。

  「土建校長」の誇り
  平成4年(1992年)に発行された葛商の『創立30周年記念誌』で、田中は自身を「土建校長」と呼んでいる。
  「校長としての力量を示すのに建築しか能のない校長への蔑称である。校長在任中のことを語るには、やはり私にとって土建校長としての思いが強い」
  田中が校長を務めた時代に、新校舎が建設され、多くの施設・設備も導入された。「土建校長」の面目躍如だったといっていい。
  昭和56年(1981年) 2月20日、桜水商業で都立高校の建築計画の説明会があり、約30校の校長が集まった。木造建築、老朽鉄筋改築、体育館改築の3グループに分けられたが、葛商は唯一の老朽鉄筋校として校舎の全面改築を示された。田中は、うれしくて飛び上がった。
  さっそく校内に施設検討委員会を設置、その後1年2カ月にわたり、改築計画について都教育庁施設計画課、営繕課と学校側で10数回にわたって検討を重ね、基本計画が完成した。
  仮校舎は建てず、授業は旧校舎で続けながら、新校舎を南側のグランドに建設することになった。新校舎が完成した後、旧校舎を取り壊し、そこを新しいグランドにするわけだ。体育館、プール、クラブ部室は既存のものを、そのまま使用することになった。着工は昭和57年(1982年)10月25日で、完成は昭和59年(1984年)4月1日だった。

  校長室のドアは、いつも開いていた
  田中がもっとも苦労したのは地域の方々に「校舎改築」を納得してもらうことだった。建設となると、騒音などが発生するのは避けられない。地域にとっては決して歓迎できることではない。議員を通しての強行な申し入れもあったが、田中は何とか切り抜けた。決め手になった言葉は「校長室の扉はいつも開いています。苦情、要望などがあれば、いつでも私に直接、持ち込んで下さい」。
  会議の時以外は、ドアを開けておき、だれでも入りやすくした。冬になると、少々寒かったが、オープンの方針は貫いた。
  さすがに地域の方が訪問してくることはまれだったが、生徒たちは気軽にやって来て、授業、クラブ、学校行事、進路、家庭の悩みなどを思いつくまま話していった。時には「手相を見てください」「すさんだ気持ちを癒して欲しい」とやってくる生徒もいたが、田中は自らコーヒーをふるまいながら、ていねいに応対した。

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