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    教師も鍛える学校だった−2
  私を育ててくれた偉大な葛商●角田啓之(元本校教諭、保健体育、石神井高校)
  私は、昭和54年(1979年)4月より11年間、奉職させていただきました。当時の田中宏平校長、谷幸夫教頭と体育科の相楽俊幸先生に面接していただいたことをようく覚えています。
  部活動は、器械体操部と女子バレーボール部を顧問させていただきました。
  2つの部を指導していくとは、とても大変でした。でも、子どもたちの情熱とガンバリに心を動かされ、なんとか両立させていくことができました。夏合宿では、前半・器械体操部、後半・女子バレーボール部を8泊9日で指導していました。
  葛商の生活は毎日がとっても楽しかった。父のような存在の相楽先生、兄のような小幡・由良両先生、姉の田中先生、同年代の百瀬先生、妹のようなカワイイ杉渕先生、弟の庄司先生、川端先生。私が在勤していた11年間の体育科でお世話になったファミリーメンバーです。
  私は弱冠26歳の時に転勤してきました。まだまだ考えの甘い教師でしたから、失敗の多いことばかり。1日の終わりには、高砂駅付近の「はしや」という、名物おばあちゃんのいる店で、反省会です。ほとんど毎日飲んでいましたね。
  そこに、10人以上のメンバーが集まり、その日の出来事に話が咲き、まじめに教育論を語り合ったものでした。そこに集まったメンバーは、1人ひとりが葛商を心より愛し、自分が必要とされていると信じ、子どもたちを愛し、情熱的に指導していくべきであると本気で思って取り組んでいる人たちでした。
  心の底から温かい「ファミリー」と呼べる葛商で11年間過ごせたことが、今日、順調に教師を続けていられる礎になったと心より感謝いたしております。また、葛商生活中に、縁があって器械体操部の卒業生と結婚ができたこと。2人の娘に恵まれたことも、とってもうれしい出来事でした。
  2人の愛娘は私の母校・鷺宮高枚に入学し、長女は保育専門学校生、次女は在学中で、バレーボール部で大活躍しています。妻は病がもとで、私たちの看病むなしく亡くなりました。しかし、家族は、明るく・元気よく・たくましく生きています。この源は、ズバリ葛商での経験です。感謝!

  教師としての青春時代●圖司征治(元本校教諭、社会、竹台高校)
  平成元年(1989年)度より12年間、私は葛商に通いました。年齢に置き換えると、27〜39歳までということになります。まさに働き盛り。校務分掌の履歴をあげると、生活指導部1年→1〜3学年(29期)→生活指導部2年→1〜3学年(34期)→生活指導部1年→3学年(36期)→生活指導部1年という具合で、生徒と直接関わり続けました。
  都立大島南高校に次いで2校目ということで、比較的思い通りの教育実践を展開することができたと思います。それは職業高校のわりには普通科教員の役割が重く出番も多いこと、能書きより行動を重んじ、若手の試みを支援するエネルギッシュな教員集団、そして、なによりも、素直でキレイな心をもつ生徒のみなさんに恵まれたことによるものであるといえます。想い出に残る幾多の出来事の中で、ほんの一部を挙げてみます。
  29期。1年次の大島一泊遠足。強引に企画し、一睡もできずに終わりました。2年次のテレビ出演。担任クラスの女子がTBS「青春太陽族『カラオケ甲子園』」に応募、収集困難な盛り上がりで多大な迷惑をかけました。
  34期。情報処理科3クラスの3年間クラス替えなし。謹慎経験生徒数の最多記録を出しながらも、生徒たちは明るく、たくましく堪えつづけてくれました。
  36期。担任入院により3年次のみのピンチヒッターでした。6月に起こした「生徒追い返し事件」と「真撰組」の旗揚げ。最も濃い1年間でした。
  球技大会や文化祭などの企画委員会における、教員集団の見事な連携。
  「誠」(見返りを期待することなく、他者の幸せを自己が存在することの証とする尊い真心)を理解し、共有できる生徒たちと過ごした日々。
  そして、「教師は生徒1人ひとりの背負った人生に責任を負うことはできない、という謙虚さを忘れてはならない」と、私の気負いを鎮めてくださった先輩教員との出会い。葛商は私にとって「教師の学校」であり、ここでの日々は「教師としての青春時代」でした。葛商も私も40歳。「不易と流行」を見極め、揺るがぬ「不惑」の境地に達したいものですね。

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