東北に希望と元気をありがとう−−。夏の甲子園大会第15日の20日、光星学院は東北勢初の全国一をかけて日大三(西東京)との決勝戦に臨み、0−11で敗れた。今大会を通じ好投した先発秋田教良投手(3年)が三回に3点本塁打を浴びつつも粘りの投球を続けたが、七回に連打で5失点とつかまった。打線は五回、2死一、二塁から秋田投手の右前打で金山洸昂選手(同)が本塁を狙ったがタッチアウト。反撃の好機を阻まれた。1969年の三沢以来、県勢42年ぶりの準優勝に、スタンドから、そして被災地から「最高のゲームだった」と温かい拍手が送られた。【神崎修一、鈴木久美、山下俊輔、中津成美】
▽決勝
光星学院 000000000=0
日大三 00301052×=11
東北勢初の快挙を見届けようと、一塁側アルプススタンドは全国各地から同校OBや青森関係者など、幅広いファンが詰めかけた。
OBで巨人の坂本勇人選手とチームメートだった中部学院大(岐阜県)野球部コーチ、柴田耕一郎さん(23)は「ここまで来たのはすごいのひと言。高校時代で比べると勇人より川上(竜平主将)の方が上だ」と期待を寄せた。金沢成奉総監督は「投手が5点以内に抑えたい。勝敗は神のみぞ知るだ」とグラウンドを見守った。
先発は好投を続けてきた主戦、秋田投手。二回までは出塁を許しながらも、粘りの投球でしのいだ。しかし三回、先制の3ランを浴びる。野球部の江見健人君(3年)は「1点ずつ返せばいける。焦りはない」と光星打線に期待をつないだ。
だが、七回、秋田投手が連打を浴びる。まさかの光景に、OBたちは「ヤーレ、ヤーレ」と八戸三社大祭のかけ声を出して、失点に沈むアルプスを盛り立て続けた。
九回表最後の攻撃。おなじみになった応援歌「だいじょうぶ」に合わせ応援団が声を張り上げる。野球部の前原玄稀君(同)は「最後まであきらめたくない。あいつらを信じている」と祈るような表情で話した。
2死から荒屋敷篤士選手(同)が代打で登場。高めの直球を強振し三振。15日間の熱闘は終わった。
「あー」。静まりかえるスタンド。しかし、ため息はすぐに歓声に変わった。「最高のゲームだった」。満場のスタンドから、温かい拍手がわき起こった。
荒屋敷選手の父司穂さん(56)は「思い切り振ってほしいという思いで見ていた。感謝の気持ちだ」と、息子をねぎらった。野球部の加賀慎吾君(3年)は「選手はいつも通りだったが、相手が強かった」。マネジャーの斗沢優希さん(同)は「どんなに点を取られてもあきらめない姿を見せてくれた」と涙をぬぐった。
◇4強OB駆けつけ
○…00年夏の甲子園で光星学院の4強入りを導いた当時の主戦、斉藤広大さん(29)は「決勝で戦う選手たちの姿が見たい」と埼玉県から駆けつけた。
この夏の4強入りが決まった17日、当時の仲間と「決勝は応援に行こう」と話し合い、この日は数人で観戦。「あの夏」以来初めて訪れる甲子園を懐かしみつつ、健闘したナインに「よく頑張った」と大きな拍手を送った。
◇八戸市民も感動
惜しくも全国の頂点は逃したが、東日本大震災で被災した八戸市に感動と元気をもたらしたナインの快挙を、被災した市民はわがことのように喜んだ。
新湊2の電器店経営、釜石昭さん(76)は「期待していただけに残念でしたが、よくここまで来た」と感動。津波で店の1階が浸水し、車も流された。選抜高校野球大会から帰ってきた光星ナインが近所でがれきの片付けなどボランティア活動する姿をよく見かけ、「本当に助かった」と振り返る。
湊町大沢の食料品店経営、新町セツさん(77)は「お客さんそっちのけで応援してました。本当によく頑張った」と興奮冷めやらない様子。店は2メートル以上浸水、車2台が流されて冷蔵設備9台が壊れた。店を再開できたのは6月中旬だった。光星野球部員に「お祝いをしてあげたい」とほめちぎった。
新湊2のタクシー運転手、中里義光さん(65)も「何といっても三沢以来の準優勝。42年前のようにパレードしてあげたらいい」と熱く語った。【松沢康】
◇体育館で700人応援
八戸市の光星学院高体育館では生徒や保護者、近くの住民ら約700人が応援。大型スクリーンに映るナインに、ねぎらいの大きな拍手が送られた。
野球部1期生の畑中徳寿さん(71)は「悔しいというより、よくここまでやってくれたという思い」と健闘をたたえた。野球部OBの公務員、山本弘己さん(57)も「よく頑張った。点差ほど力の差はなかったが、ちょっとしたことが響いた。胸を張って帰ってきてほしい」と話した。
42年ぶりの県勢の準優勝に、在校生の期待は高まる一方。2年の石宇麻郁さん(16)は「最後まであきらめずにすごい。来年も甲子園に行って」。法官新一校長は「ここから光星の歴史が始まると信じている」とナインをねぎらった。【松沢康】
◇母の誕生日に初出場−−光星学院3年・荒屋敷篤士選手
出場機会が少なくても腐らずチームに献身した捕手に、最後の最後で出番が来た。11点を追う九回表2死での代打。「後悔はしたくない」とフルスイングを心に決め、ファウルで粘った後の6球目を全力で振った。球はミットに収まり、甲子園初打席がチーム最後の打者となった。
ベンチ入りした18人のうち、八戸出身者は自らを含め3人。出場した他の2人と違い、なかなか甲子園の土が踏めない。宿舎で金沢成奉総監督に「腐りたい気持ちがあるかもしれないが、おれはお前を認めている。チームのためにプレーしてほしい」と言われ、救われる気がした。
試合後、正捕手の松本憲信選手(3年)が「おれのせいで試合に出られなくてごめん」と言った。「おれも打てなくてごめん」と返し、2人抱き合って男泣きした。
三振に終わった力不足に悔しさは残る。だが、準優勝の結果には自信もある。この日は母の誕生日。「(初出場が)最高のプレゼントになったと思う。ありがとうと伝えたい」。背番号12の捕手は誇りと感謝を胸に甲子園を後にした。【山下俊輔】
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■白球譜
◇青森の人のために−−田村龍弘選手(2年)
「応援してくれる人たちに、何かを与えられたと思う。胸を張って八戸に帰りたい」。東北勢初制覇まであと一歩だったが「悔いはない」と、光星の主砲に涙はなかった。
出身地大阪を離れて光星に進学。慣れない寮生活や全国一とも言われる練習量に音を上げた。「逃げたい。やめたい。八戸駅までタクシーに乗れば……」。何度も脳裏をよぎった。「我慢すれば必ずいいことがある」という仲井監督や仲間の励ましが心の支えだった。
高校球児として最高の舞台に立った今、「自分は青森人。青森代表として青森の人たちのために戦いたい」と話すまでになった。
決勝では、四球で出塁したものの3打数で無安打に抑えられた。だが、「当たりは悪くなかった。ライトへ強い打球が打てた」と手応えを感じた。
九回2死、川上竜平主将(3年)がふと声をかけた。「来年頼むぞ」。涙をこらえてうなずいた。「この経験を1、2年生に伝え、春また戻って来られるようしっかりと練習したい」。再び八戸から夢の舞台へ。新チームにかける思いを募らせた。【神崎修一】
毎日新聞 8月21日(日)11時3分配信
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