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 2011年 夏の甲子園開幕 岩手/高田の特別な夏が始まった
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岩手・高田高校 感謝を胸に甲子園を目指した夏





高田の特別な夏が始まった 2011年7月1日(金) スポーツニッポン
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あの時は想像できなかった特別な夏…高田高 元気に入場行進

真新しいユニホームで堂々の入場行進を行った高田ナイン PhotoByスポニチ

東日本大震災から4カ月余り。津波で沿岸部が壊滅的な被害を受けた岩手県で14日、第93回全国高校野球選手権岩手大会の開会式が行われ、球児の夏が幕を開けた。県内最多の1531人の死者を出した陸前高田市の高田高校も元気に行進。ナインそれぞれが、さまざまな思いを抱えながらグラウンドを一周した。チームは16日の2回戦で盛岡工と対戦する。

  あの時は想像することさえできなかった特別な夏がついに始まった。快晴に恵まれた岩手県営球場での開会式。きれいに整備された土の上を、高田高校ナインは胸を張って歩いた。今大会に寄せる各校のメッセージが順番にアナウンスされる。「支援してくださった方々に感謝し、感動を与えるプレーで恩返ししたいです」。このグラウンドに立つために幾多の苦難を乗り越えてきた。さまざまな思いを胸に秘め、それでも凛(りん)として行進する姿は、強さに包まれていた。

  震災により一時はバラバラになったチームをまとめてきた大和田将人主将(3年)は、遠く離れた同期の菅野明俊の姿を思い浮かべていた。「いつも行進の掛け声は明俊がやっていたので、あらためて“いないんだな”と思いました」。親友の菅野は両親が被災したため4月に小山(栃木)への転校を余儀なくされた。震災さえなければ、ともに行進していた親友の無念を思い、歩いた。

  震災後は小、中学校の避難所で物資を運んだり、炊き出しの手伝いなどボランティア活動を続けた木村丈治副主将(3年)は笑顔だった。「今までは練習が一番つらいと思ってたけど、野球ができない方がつらいと分かった」。もう震災直後のように1人で素振りや壁当てをしなくてもいい。試合ができる。その幸せを実感していた。

  控え捕手の吉田心之介(2年)は震災で父が行方不明だ。陸前高田市の米崎中学のコーチでもあった父は、いつもアドバイスをくれた。「力むな」「肘が空いてるぞ」「考え方なんてみんな違う。いろいろな考え方があるんだから」。そんな父が楽しみにしていた甲子園。「親?そっちも大事ですけど今はやっと(大会が)始まるという感じ。自分は2年生ですけど、3年生と同じ気持ちで最後の夏のつもりでやります」と前を向いた。

  控え投手の菅野海(2年)は、震災当日に腰の治療のため母親とともに宮城県気仙沼市にいた。「津波を目の前で見ました。びっくりしました」。道路は冠水し、自宅までは戻れなかったため車中で1泊。ラジオから流れる故郷の惨状を恐る恐る聞いた。あれから4カ月。「やっと夏の大会が来たなという感じです」。待望の夏の到来をこの日の行進で実感した。

  右袖に「陸前高田」と入れた新ユニホームで臨む。大和田主将は「どことやっても負けるつもりはない」と言う。作詞家の阿久悠さん(故人)は88年に高田高校が甲子園に出場し、8回降雨コールドで敗れた際、本紙連載「甲子園の詩(うた)」の中でこう書いた。「高田高校ナインは甲子園に1イニングの貸しがある」。震災は言い訳にしない。甲子園に貸した1イニングは今夏に返してもらう。



雄星 高田高ナインにエール「応援してくれる人のため頑張れ」

花巻東出身の西武・菊池が、高田高校ナインにエールを送った。2年前には春、夏連続で県大会準々決勝で対戦した。高田高の印象は強く残っているという。

 菊池「マナーも良いし、対戦していて気持ちの良いチームでした。春はコールドで勝たせてもらいましたけど、夏は一番苦戦しました」

 夏は4回まで2―3とリードされる展開だった。菊池は5回から救援登板し、5回5安打無失点に抑え、5―3で逆転勝利。その勢いのまま甲子園出場を決めた。

 菊池「打者も投手も良い選手がいました。ミーティングでも、公立高校では高田がトップの力を持っているから引き締めていけと言われていましたね。最後もピンチでやばいと思いました。粘り強かったです」

 「特別な年」と位置づける1年。東日本大震災後には西武のチームメートとともに駅前の街頭募金では声を張り上げ、義援金を募った。「自分にしかできないことがあると思う」と野球に取り組み、6月30日のオリックス戦(京セラドーム)ではプロ初勝利。東北に明るいニュースを届けた。

 2年前の激戦を見た中学生たちが「打倒・花巻東高校」を合言葉に、高田高に集結。新チームの主力選手たちだ。菊池はそんな彼らにメッセージを送った。

 菊池「高田高校は親善試合とかやっていたじゃないですか。応援してくれる人たちがたくさんいる。その人たちのためにも頑張ってほしい。花巻東と対戦するときはお手柔らかにしてもらって、ぜひ上まで勝ち進んでほしいですね」

[ 2011年8月17日 ]


後輩たちに伝えたい思い「諦めなければ、願いはかなう」

高田高校にとって大きな財産として語り継がれる、88年の甲子園出場。その時、2年生部員としてスタンドで声援を送った伊藤新(あらた)コーチ(40)は、高田高校の学校職員として生徒たちの生活を見守る。高校卒業後は大船渡市内の一般企業に就職して、5年間会社員として働いたが、野球への強い思いを諦められず17年前に転職した。同コーチのモットーは「諦めないことの大切さ」。現在は佐々木明志(あきし)監督(47)の右腕として、また選手の良き理解者として野球部を支えている。

 88年に甲子園を経験した伊藤コーチ。未曽有の震災に襲われた今も、高田高校のユニホームを着続けている。

 3月11日、午後2時46分。学校で強く長い揺れに遭遇した。「普段だったら校舎内を見回るんですけど、あの日は絶対に津波が来ると話して。何をしていたか、地震の直後のことはあまり記憶にないんです」。続々と学校に避難する市民。学校裏の高台に先導して急な坂道を上っていた時、背後から「ボンッ」という激しい音を聞いた。数メートル先では白い車が濁流とともにはねた。急いで高台に走って逃げ、下を見る。大好きだった高田松原の海岸は見る影もなく、一面の海と化していた。「いまでも夢に見ます。いきなり波に襲われて必死で逃げる。すぐに周り360度が海になる。そこで目が覚めるんです」

 伊藤コーチは陸前高田市に隣接する大船渡市の出身だ。野球との出合いは幼少期、父・亘さん(69)に連れられた早朝野球だった。大きな壁にぶつかったのは中学時代。入部した野球部は、同学年の部員が30人の大所帯だった。小柄な伊藤コーチは「こいつらにかなうわけがない」と、野球をやめる決意をする。15歳少年の苦渋の選択。「願書の変更期限直前に、学校から電話があったんです。“お父さんから進学先を変更してくれないかと言われた”って」。父は、壁を相手にキャッチボールをする息子の姿に胸を痛めた。「野球を諦められないんだろ。高田に良い指導者がいると聞いたから、行きなさい」という父に従い進学。そこで09年5月に膵臓(すいぞう)がんで他界した三浦宗(たかし)元監督と出会った。

 「言葉の一つ一つに重みがあった。人生の恩人であることは確かです」。マネジャーへの転向を打診されたこともあったが、選手を続けた。黙々と繰り返した練習が実を結び、3年時には1桁台の背番号を手に入れた。「最後はケガをして試合には出られなかったんですけど。努力すれば報われることを、あの時に学んだ気がします」。高校時代の話をする伊藤コーチはとても誇らしそうな顔になる。

 そして、震災から55日後の5月5日、長男・宗志(そうし)君が誕生。三浦宗元監督の「宗」と佐々木明志監督の「志」を一文字ずつもらい受けた。「予定日より10日早くて。破水したって聞いたのが遠征の時だった。親泣かせな息子ですよ」と笑うが、妻・美穂香さん(33)も身重な体で津波を経験。暮らしていたアパートは跡形もなくなった。現在は横田町の仮設住宅で暮らす親子3人。「野球はお金かかっちゃうし。でもきっとやらせるんでしょうね」。自身が父に連れられて野球を覚えたように。その日を楽しみに、これからも大好きな野球に支えられて生きていく。

 震災から5カ月が経過し、選手は日常を取り戻しつつある。「うちは日本一支援していただいているチームですから。今度は野球で日本一にならなくちゃいけないと思ってます」。諦めなければ、願いはかなう。伊藤コーチは、力強くそう話した。

[ 2011年8月18日 ]


進まぬ復旧 戸羽市長「被災者はあす起きても被災者」

3・11から半年。陸前高田市では岩手県知事選、岩手県議選、陸前高田市議選が行われた事情もあり、自治体としての追悼式などは行わず、震災発生の午後2時46分にも防災サイレンなどは鳴らさなかった。曇天の日曜日、市民らは静かな一日を過ごした。

 津波で全壊した高田高校はいまだほぼ手つかずの状態のまま。校舎裏の野球部グラウンドには仮設住宅が建築され、高校再建のメドは立っていない。こうした現状について、本紙の取材に答えた陸前高田市の戸羽太市長(46)は「市内で唯一の高校で(街の)シンボリックな存在」とし、岩手県側と再建案を協議していく方針。全壊した病院や福祉施設、高田高校などを1カ所にまとめ、市民の利便性を高めていくプランがあることも明かした。

 人口約2万5000人の陸前高田市の犠牲者は実に1633人。行方不明者は264人、76人を確認調査中だ(いずれも同市調べ)。がれきの撤去作業はわずかながら進んではいるものの市内のあちこちには木材、金属、車などが種類ごとにうずたかく積まれている。かつての中心部はさら地に近い状態だが復旧・復興にはほど遠い。

 警察による行方不明者の捜索も継続中。市内の避難所は全て閉鎖され、仮設住宅への入居が進んでいるが、慣れない環境に戸惑う人も多い。

 妻を津波で失った戸羽市長は「(国は)スピード感というものをどう捉えているのか。被災者はあす起きても被災者。“(復興資金の)財源の方向性を決めるまでは何もできない”では駄目」と政府の対応の遅れを批判。「スピード感、(首相の)リーダーシップが大事」と重ねて指摘していた。

[ 2011年9月12日 ]




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